【この世界の片隅に】感想 これはまさしく日常アニメだ。

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中4日ですか、更新できなくてすみません。今日は、素直に後ろ向きでない記事を書きたいと思います。

この世界の片隅に、ようやく見れました。思えば、2016年はアニメ映画の大豊作。聲の形、君の名は、そして「この世界の片隅に」。その一角を、感想として切り崩してみたいと思います。

以下、ネタバレしまくります。

書きたいこと

  • 日常アニメよりも日常アニメしている。
  • 右手と居場所というキーワード、大事。
  • ほんわかした絵柄が効いている。
  • エンタメとしては弱い。
  • 人間ドラマとしては薄口だが、主張はしている。
  • この映画が見られてよかった!

日常アニメ。それも日常と向き合うための日常アニメだ。

よく、日常アニメというと、キャラがわいわい楽しく、ある一定の範囲のなかで動きながらも、その範囲からは逸脱しないというものがイメージされます。のんのんびより・ご注文はうさぎですか?・ひだまりスケッチ・けいおん!等など。

僕はそれらが大好物なのですが、この映画を今回見て、こんな日常アニメもあるんだなと、表現というものの奥深さを感じました。

日常アニメというと、萌えがまず第一印象として強い、キャラクターの可愛さを描いてナンボのところがあります。本作もそれに漏れず、のんさん演じる主人公・すずの内面・外面がこれでもかと描かれます。

ですが、その日常が重たい。確かに、すずも一定の範囲から逸脱しない。これは日常アニメです。ただ、ひたすらに重たい。ずしっとくる。

これは、ひたすらに日常と向き合った、よりリアル感のある日常アニメなんだと解釈します。

以下、日常という視点から、「この世界の片隅に」を紐解いていきたいと思います。

すずの日常。表現は楽しいことだ。それを、失うということ。

冒頭の、海にウサギが飛んでいる、という表現。そしてその空想を表現した、すずが描いた絵。初見でしたが、思わずグッとくるものがありました。

僕も、釣りをするのでこの表現は知っていましたが、それでも美しい日本の風景を色鮮やかに表現していて、それだけで泣きそうになりました。

すずにとって絵を描くことは生きることです。人を楽しませる、自分も笑う。コミュニケーションの一手段としてだけではなく、自己の存在意義として定義されるのが絵を描くことなのです。

そんなすずが、右手を失う。それはそれは、本当にショッキングでした。後述する「居場所」とともに、存在意義を失ったすずのやつれた顔、包帯を巻かれた頭、虚ろな目。これこそ芸術的美しさであると思うとともに、目をそむけたくなるリアルさが、そこにありました。おそらく絵コンテの切り方が優れていると思うのですが、本当にリアルな日常です。

それでもすずの、日常は続いていく。それもたくましく。笑って過ごしている。これは、すごいことです。反戦とかそういう政治的メッセージを抜きにして、凄まじいリアリティで、この映画は日常の重たさを表現しています。

ここまで重たさ、という表現を使ってきましたが、それは何も「重たい、はやく下ろしたい」という荷物的な重たさだけでなく、「この重たさこそが生きる上での重心になる」という、生きていく上での安定感を醸し出すものでもあると、理解していただきたいと思います。ポジティブな意味合いもあるということです。

居場所を、失いたくない。絶望の中でとったすずの”消火”行動

ほんとにもう、これは人間の本能ですよ。焼夷弾が家に落ちて。生きる気力も失ったすずが、それでも右手を失った体で文字通り”モガイて”、消火しようとする。

ここの凄まじさは、もう表現しきれないものです。すずは人生に絶望しているのに、まだ感情に揺り動かされる。それも、居場所を失いたくない、という衝動。

居場所というのは、それだけ人間にとって大事なものなのです。

会社と家の往復が、満たされない暮らしであることは言うまでもありません。それ以上に、いざという時踏みとどまれるのが、居場所があるから、という理由だったりします。

それはもう、DNAに刻まれているんだなと、この映画を見て理解しました。

絶望→衝動、その転換が、凄まじい。これほど説得力のある表現があるだろうか、と思いました。

全体的にほんわかした絵柄。それがより効いてくる。

全体的に萌えアニメよりの絵柄ですよね。それでも、描かれる日常は凄惨。そのギャップが効いていると思います。

思うに、多くの人にとって、可愛らしさは親和性が高いんですね。すずのテレ顔なんか、思わずこっちもにやにやしてしまう。

そこをうまくつかって、等身の低いキャラクターたちが、あたかも小学生の演劇のごとく、人間ドラマを演じる。それも、延々と日常を、リアリティを持って表現する。

それは説得力に繋がるだけでなく、視聴者を物語に一時的に物語に入り込ませる効果もあると思います。自分だったらどうだろうとか、考えると思うんです。特に若い女性は。

このキャラクターデザイン・背景美術のチョイスは優れています

批判する点は?

やっぱり前半がのんびりし過ぎていて、後半の展開についていけない人が出てくるんではないか、というエンタメ的な面での心配があります。

エンタメ映画では、はっきり言ってありません。万人受けもしないでしょう。人によっては、「あれ、もう終わり?」って感じだったり、逆に「長い。退屈だー」ってなると思うんです。

事前に原作を読むなど、予習して望むのがふさわしい映画だと思いますね。

全体的には、庶民の日常を描いた「民衆史」

これを書くのを忘れてはいけません。出て来る料理・衣服・暮らし・風景・娯楽。すべてが、日常の中にリアリティを持って描かれます。それは、とてもたくましい。一番の見所は、戦争とは関係なく庶民のたくましい日常は続いていくよ、という所だと思うのですが、僕には前述のすずの「右手」「居場所」というキーワードが強く印象に残っています。もちろんこちらも表現的には優れていると思いますけどね。

晴美の「警報もう飽きた」は、怖いけど笑ってしまいました。

最後の見どころは「人間ドラマ」

すずがどこで救われるか、というと、結局義姉の径子に「晴美を失ったことを責めてすまなかった」と許される所なんですよね。あそこで、久しぶりにすずのテレ顔が見られます。その表情を物語中盤~終盤にかけて、そこまで使わない、というところにこだわりを感じます。

人間ドラマ、というにはすごく淡々としてますよね。兄・要一の死が象徴的です。

でも、それが本当にリアルなんです。「ああ、自分も兄が戦争で死んだら、こんな感じだろうな」と思えてしまうんです。

随所に、旦那の周作との関係も描かれますが、淡々としてます。実際、ドラマのような人生なんて早々ありませんよね。あったら百円ハゲが5箇所くらいできそうです。

唯一映えるのが、お互い片想いだったすずと水原の関係。

水原がすずと一夜を共にした場面(性的な意味はないです)、「お前だけは普通でいてくれ」と水原がすずに訴えるのですが。ここだけ、映画のメッセージ性を感じました。逆に言えば、はっきりとしたメッセージ性は他にはあまりありません。ホントに淡々と、日常を描いているだけです。

普通。要するに、「すずらしく、いつまでもすずでいてくれ」ということだと思うのです。普通というのは、この映画でもテーマのひとつになっていて、すずは最初はほんわかした、悪く言えば世間ずれした変わった娘として描かれます。それが、だんだんと花嫁修業に鍛えられていく。たくましくなっていく。

そんなすずを見て、水原は「お前も普通になったんだな」といいます。そこで上述の言葉をかけるわけです。

一見同じ「普通」でも、その前後の意味合いは違う。要約すれば、普通な中でもおまえらしくいてくれよ、ということでしょう。

ここも、表現的には優れてますね。あんまりこの作品も穴が無いんですよね。隙はあるんですが。

総括

優れた日常アニメである、というところでしょう。とにかく表現力の高さが際立っている。だからこそ、見る人は自由な感想を持つことが出来る。イデオロギー映画とは対照的な立ち位置にある映画だといえます。

それゆえ、エンタメ的には弱い。この映画は、ともすれば埋もれてしまう運命にあったかもしれません。そもそもが、クラウドファンディングから始まってるわけで。こうして話題になって、見ることが出来たのがすごくうれしいです。

まとめ

  • 日常アニメよりも日常アニメしている。
  • 右手と居場所というキーワード、大事。
  • ほんわかした絵柄が効いている。
  • エンタメとしては弱い。
  • 人間ドラマとしては薄口だが、主張はしている。
  • この映画が見られてよかった!
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