ちょっと人間関係で痛い目にあって。
そのことで、感じることがあったので書いてみます。
僕には”定期的に遊ぶような”友達がいない
親友はおろか、友達すらも。それでも生きてます。
ひとつだけ言いたい。現代の若者たち(僕もギリギリ20代ですが)、人付き合いのハードル高すぎ!同じメンバーで群れ過ぎ!
・・・まあそれはみんな薄々感じてることなのだと思うので、それはそれでおいておいて。
正しくは、友達はいるのです。ですが、会うのは不定期。
つるむような関係の友達はいません。
というのも、学生時代の友達がみんな東京に住んでいるからです。そして、北海道でも、向こうからアクセスしてくるような、積極的な友達も少ないです。
こっちに移住してからというもの、積極的とまでは行かなくとも、飲み会に顔を出したり自分なりに努力してきたつもりです。
ですが、結果から言えばその事でひとりも友達は作れませんでした。
こうなったら、開きなおるしかない。
そう、そうするしかない。
死んだら墓場まで友達は持っていけない。
ましてや飲み会で飲んで叫んで終わりな友達なんて、葬式にさえ来るかわからない。
だったら、こちらからアクセスしたいような人間関係以外、いらないのでは?
僕は馬鹿になりきれない
その場の空気に酔って、馬鹿騒ぎするようなことが、僕には出来ません。
もちろん、そういったコミュニケーションスキルが必要だという意見には賛同します。
単純に、そのスキルが人より遥かに劣っている。だから飲み会という場では、人と仲良くなれない。それだけのことです。
日本式・社会成熟論。それはおひとりさま。
漫画「ゆるキャン△」の志摩リンみたいな、おひとりさまっていうのは日本式社会成熟論を象徴しているように感じます。
仲間はいる。でもひとりの時間を大事にしたい、というような。
あれって、志摩リンは決してひねくれてるわけじゃなくて。
ああいう人間も含めて「日本だ」と言えることが、社会の成熟なのだと思うのです。
孤独ってなんだ。
孤独は、知らないと視野が狭くなる。自立というものと向き合えなくなる。
ですが、孤独すぎてもそれはまた、無知です。二極論ではなくバランスの問題ですね。
結び
完全に備忘録になってしまった。これが響くような人とは、ぜひ友達になりたいです。
成人して以降は、友達に関して問われるのは、”数”ではなく”質”だと思うのです。
質っていうと失礼だ。正しく言えば、それは「その人と波長が合うかどうか」。
経験上、いくら接点があったって、会話の入り口にしかなりません。趣味の友達っていうのも、その場限りになりがちです。
それよりも、「こいつと友達になりたい」というような、相手に魅力を感じるかどうかが重要です。
酔って歌って、を否定するつもりはありません。一方で、部屋の片隅でコソコソとのんびり語り合うような人間関係も、また一つのカタチなのです。
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