助けてと言えない 孤立する三十代 感想 何モノにもなれない僕たち

一般生活

自分の生きづらさって何だろうとずーーっとここんところ考えているのですが、この本が一つの答えをくれました。

結論から言うと、僕は30代にしていまだ何モノにもなれず、そのことで心の中が不安でいっぱいだからです。

30代という年代に至り、悩み、苦しむ方には、読んでいて辛い内容ではありますが参考になるかもしれません。

「助けて」と言えずホームレス化、あるいは孤独死する30代

この本では、NHKクローズアップ現代の取材班、特に福岡・北九州放送局のスタッフの取材のもと、「助けて」と言えずにホームレス化したり、孤独死したりする30代について書かれています。

取材は東日本大震災よりも前の2009年代からはじまり、2013年まで続きます。

 

2009年4月、北九州市の住宅街で、孤独死した30代が発見され、その傍らには封筒に入った、「助けて」と文字が書かれた便せんが置かれていました。

孤独死した方は、社会的に孤立していたわけではなく、同窓会などの催しにはよく顔を出していました。

孤独死のきっかけは失職でした。

 

なぜ、死の淵に立たされるまで助けてと言えなかったのか。

若干取材が行き過ぎているところもありますが、まっすぐな目で問題を捉えている本書。

結論へ至るには一見右往左往しているように思えますが、問題意識は徹底して「当時の30代がなぜ助けてと言えなかったのか」に貫かれています。

 

若いホームレスは、一見ホームレスとはわからない

孤独死と同じように、若年ホームレスの問題が表面化・社会問題化し始めたのも2010年代です。

彼らは一見服装に気を使った若者風で、ホームレスには見えません。

しかし、彼らは夜になるとファーストフード店で時間をつぶし、寒さや冷たい視線をしのいでいます。家や守るべき存在はなく、貯金を食いつぶしながら日雇い労働を転々としています。

 

彼らは国の政策や支援者によって生活保護に繋げられ、ホームレスとしては姿を消しましたが、孤立化問題が解決したわけではありません。地域の中で、誰を頼ってよいのか、そもそも自分がそれに値する人間なのか、という自問自答の課題を抱えています。

本題。我々は何モノなのか。

本書の取材当時の30代は、就職氷河期世代から、それよりも少し前、バブル期に就職した世代です。

彼らは徹底して支援を拒み、自らがホームレスであることを認めたがりません。

「すべて自分の責任だから」

家族との繋がりが途切れていたり、ホームレスであることを隠している場合も多いのです。

 

なぜか。

その理由こそ、僕が生きづらさを感じる理由の一つだと、本書から読み取りました。

それは、僕は一体何モノなのか、さっぱりわからないということです。

 

つまり、僕の実体とは、昔思い描いていた「立派な大人」像からかけ離れた、何モノにもなれなかった「精神はそのままに体だけ大きくなった少年」なのです。

 

そしてそのことを悔い、とても恥ずかしいと思っています。

だから、人になかなか助けてと言えないわけです。

 

立派な会社に勤め、家族を持つ。

昔思い描いた、将来。それは一流企業に入り、家族を持ち、苦労しながらも楽しく暮らす未来でした。

 

ですが、ご存じの通り日本は衰退局面に突入し、持ち家はリスクであり、正社員は常に非正規雇用への転換・リストラの脅威にさらされています。

家族を持つハードルは、おのずと高くなります。

 

ところが、心の中の少年は、立派な大人になることをいまだに望んでいるのです。

思い描いた未来と、現実のギャップに苦しんでいる。

この点において、僕という30代と本書の「バブル~就職氷河期に就職活動を行った30代」は合致するのです。

このことは、本書の後半でなんとなく触れられています。

 

ですが、このなんとなくの空気に読書を通して触れたとき、「なんだ、そういうことだったのか」と少し安堵したものです。

何について悩んでいるのかすらわからず暗闇の中を走っていた僕は、その悩みの種に気づいたのです。

 

なぜ何モノかになることを強要されるのか

考えてみれば、なにも、ありのままでいたっていいはずです。

何も不安がることはない。

 

ではいったいなぜ、何モノかであることを自分に強要しているのか。

 

それは間違いなく学校教育が影響していると考えています。

 

中学~大学のクラスでは、キャラクターを演じることを強く意識させられてきました。

明るいキャラならクラスの中心。暗い奴はクラスの隅っこ。

 

スクールカーストと呼ばれるこの苦しみの源が、キャラクターから逸脱することを許さないのです。

ここらへんはもっと詳しい人がいると思うので、解説はそちらに譲ります。

 

自己を尊重するというアイデンティティ教育

思うに、僕の世代が受けたゆとり教育では「自己」が尊重され、アイデンティティというものを強く意識させられる教育が行われてきました。

 

この教育とクラスの空気感があわさり、僕が「何モノ」かになることをいまだに求め続けているのでしょう。

 

この教育環境というものは、僕の中に根をはり、いまだに僕を苦しめているわけです。

 

結論:人と人とのつながりが解決策

何モノかになる手段の一つに、人から感謝される人になるという方法もあります。

どうやら僕にはこの道が正しいのかもしれません。

 

本書では、心の通った人と人との繋がりが解決策として示されています。

支援策としては、伴走型ということになります。

支援者も、問題に対して口を出すだけではなく、一緒に何が問題か考えて試行錯誤するわけです。

 

「自己責任論」は一時社会を席巻し、様々な議論が交わされました。

果たしてそれでいいのか、という論調が多かったように思いますが、一方でその解決策に皆頭を悩ませていたのもまた、事実。

 

東日本大震災、そしてコロナ問題を経て、「国は頼りないから国には頼れない」「自分で何とかしなきゃ」という風潮がまた、強まってきているような気配があります。

 

受援力、という言葉もあるように、人に頼るというのは一種のスキルです。

僕たちは、まず「助けて」と言えるように、この社会のありようを変えるとともに、自分のことを好きにならなければなりません。そう、ありのままでいられるように。

 

超えるべきハードルはたくさんありますが、僕も「自己責任論」の行く末について、今後も観察していきたいと思います。

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