はじめに書いておきます。イジメは虐める方にその”要因”がある。
よく言われるのが、イジメられる方に原因がある、故にイジメられる方が悪いのだ。という段階を踏んだ論法。こんなことは、大人の世界ではまかり通りません。暴力は法権力によって裁かれるものです。これは、学校という閉鎖空間だからこそ成り立つのです。
はっきり言うと、イジメられる原因のうち、一部についてはイジメられる方にあると思います。たまにいますが、不潔だったり、人の悪口を言いまくってたり。ですが、おとなしいと言うだけでイジメられる場合もあり、これは原因と言うにはあまりにも酷です。
そして、ここからが重要。
イジメでしかその問題を解決できない、解決能力の低さこそが問題なのです。故に、イジメの発生する要因は、イジメという行為で問題を押さえ込もうとする稚拙さです。
イジメをしたところで、問題を根本から解決することにはなりません。
建前終わり。
自らの弱さを隠すために、さらに下にクラスメートを置く。
こっちの方が問題だと思うのですが、イジメは本質的にはエゴイズムであり、スクールカーストによるものです。
いじめっ子が、自らがイジメられるのではないかという不安から、自分よりも弱い存在をイジメによって構造的に作り出し、それをスケープゴートとする。こうしたイジメの構図は、学校という閉鎖空間そのもののデザインに端を発していると思います。
つまり、学校を開放的・流動的にすればイジメは減る。しかし日本の教育的にはマイナス。
難しすぎて誰もやらないと思いますが、イジメゼロを謳う学校があれば、特色としてはすごいアリだと思うのです。イジメの根本原因が学校のデザイン性にあるとすれば、いっそ開放的にしてしまえばいいというのが、僕の意見です。
開放的というのはこういうことです。
- 席順を決めず、大学のように自由に生徒が席を選ぶ
- カリキュラムを選択性にし、自分の学びたいことを学ぶ
- 地域の住民に学校を開放し、学びのランドマークとする
これらは全部取り入れろというのではなく、例えばカリキュラムを選択できる授業を一部のコマに取り入れたりとか、やり方工夫の仕方はいくらでもあると思います。
これらの趣旨は、流動性にあります。固定した人間関係こそが、イジメの発生後、それを固定化してしまうのです。であれば、皆がいつも同じ顔を合わせる状況をできるだけ無くすことが肝要です。
まあ、日本の公立学校では無理でしょうな。学校とはまず、教育以前に”日本的”協調性を学ぶ場所です。悪く言えば右ならえというか。これはいい意味で日本の国民性を形作っているともいえます。
また、単純に効率が悪いためコストもかかります。これだけやれるのは学費の高い私立学校だけでしょう。
そして、保守的・社会主義的日本で生きていくには、これらの学校を出た後の苦痛に立ち向かわなければなりません。多くの人間は保守的・閉鎖的学校空間出身者のため、エッジというか、お互いの乖離は大きなものとなります。上で提案した、ある種エリート的な教育空間は様々な格差を生む要因でもあり、ベターとさえ言えないのです。
まあ、イジメられたら、その、逃げろ。
悪いことしない人間なんていないのですよ。だから、自分を責める必要はない。その場から逃げてください。でも逃げる場所がなかなか、無いんですよね…。イジメられる生徒は、家庭に問題を抱えている場合も多いと個人的には感じます。いつか、逃げ場所となるシェルターについてまとめられたら、書いてみたいと思います。
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