最近、信頼と期待を言葉で示したら、その人が信頼を行動で返してきてくれたという出来事がありました。言葉は言霊、生き物となって人と人の間をさまよい続けているのです。今日は、そんなお話。
行い(言葉)は全て自分に返ってくる。理解できなかった子ども時代。
親からよく言われたのが、「相手にしたこと・言ったこと・思ったことは、すべて自分に帰ってくるんだ」ということでした。
当時、「返ってくるんだなあ」程度の理解しかなく、その真意までは読み取れませんでした。
だから、理解できているとは言いがたかったのです。それが最近は、骨身にしみてわかります。なぜ返ってくるのかも、なんとなくわかるようになってきました。人の振り見て我が振り直せ、といいますが、まさにその通りで、我が振りを直せば、人の振りも変わっていくのです。
言葉というと、すごく軽いイメージがあります。しかし、その一言は、思った以上に重たいのです。
言葉は生き方そのもの。習慣化されて顔や態度に出る。
汚い言葉遣いをしている人は、やはり大抵心も荒れているものです。人の悪口が好きな人は、やはり人によく悪口を言われているものです。逆に、ありがとうがしっかり言える人の周りには、優しい人が集まるものです。
これは、僕の経験から感じたことなので、すべての人に当てはまる、とは限りません。特に学生は、狭いスペースで同じ人と常に顔を合わせる閉鎖空間で過ごしているため、一般社会の常識が通用しません。
社会人以上の一般人には、やはり僕の経験則があっている(=Correct)と思います。
どんな経験をしたかというと、こうです。疲れたなあ、というのが口癖になっていると、顔が「疲れて」やつれてくるのです。もちろん無自覚に疲れて、まだ大丈夫なはずなのに「お前ずいぶんくたびれてるな」と言われることもありますが。そうではなく、疲れた、という言葉が言霊となって、顔に張り付いてしまうのです。そう、疲れても居ないのに常時やつれた顔になる。
疲れてるだけならまだいいですが、悪意が顔に出ている場合、「敏感な」良い人が怖がって近寄ってきません。
同様に、職人気質の人は目が鋭くなります。常に仕事のことを考えて、あるいは口にして、ある種視野が狭くなっているのですね。それが目つきや顔に現れるのです。
部下の面倒を見なきゃ、と仕事に追われている人は、余裕のない顔つきになります。これも自明です。
痛みを知っている人、挫折を知っている人は、その優しさ・柔らかさが空気感となって周囲を漂います。ちょっと変わってる身振りだけど、良い人。周りにいませんか?有名人だと、北海道の中小企業でロケットを作っている「植松努さん」なんかがそんな感じです。
相手を見下していると、相手にそれが言葉に出さずとも伝わります。雰囲気で察せてしまう、というやつですね。言葉の端々から、それが自然とこぼれてしまうのです。
ずいぶん曖昧になってしまいましたが、ここまで例を挙げると、どれかしら共感していただけると思います。この記事では、その感覚さえ持ち替えていただけたら、あとはじゅうぶんです。
「ありがとう」「ごめんなさい」が言えると良い人が寄ってくる。
そしてもう一つの論理として、口癖だけではなく相手にかける言葉も重要です。それは「ありがとう」「ごめんなさい」が相手に言えるかどうか、です。
これは立場や地位に関係のないことです。これが言えないと、相手を無意味に遠ざけてしまう恐れがあります。失敗したのにごめんなさいも言えない人と、関係を深くしたいとは思えませんよね。それ以外のメリットがあるならともかく。
人間関係は充実しているのに孤独を感じているような人こそ、ここらへんから見直していくべきです。もちろん、無差別的にごめんなさいを言いまくればいいわけではありません。気が弱いことを見抜かれて、相手につけ込まれる恐れがあります。
ありがとうが言えれば、相手もありがとうで返してくれるようになります。これは相手がどれだけ幼稚でも同じです。まあ、通じない相手もいないわけではないですが・・・。それは極端な例です。
どうにも人生がうまくいかない人と、なぜかうまくいく人の違い。
人生がうまく回るか回らないかの違いは、その一側面としては人間関係がしっかりしているかどうかがすごく重要だと思っています。そのためには、普段の言葉遣いこそしっかり気を配るべきです。ごめんなさいを言い過ぎてもダメだし、ありがとうを言えなくても駄目です。中庸こそ生きる上で欠かせないものですね。
言霊を意識し、良い人間関係を引き寄せましょう。人間関係こそ、富に次ぐ重要な資本なのですから。
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