若者とSNSの問題。日本概論とSNS疲れを防いで幸せになるには。

オタク生活

最近、SNSで色んな人と交流したり、またその言動を見聞きし、いまさらながら利用時間が増えています。おかげで、暇つぶしの中でも5chから離れられるようになってきました。ですが、SNSにも課題があるな、というより僕たちの利用の仕方に問題がある、だから疲れるのではないかと思っています。

 

そんな中で考えるのは、彼らSNS利用者を鏡として自分を見た時、日本の行く末、それもSNSという現代において必須となったアイテムをどう活かしていけばいいだろう、という一つの社会・若者論です。

 

僕がSNSから恩恵をうけつつ、皆もハッピーになれる。そんな絵に描いた餅を、どういうベクトルでSNSを使用すれば実現できるのか、考えてみました。

 

前提として、日本に対する僕の現状認識を。

まずは抽象論をつかって日本を俯瞰します。その後、具体論であるSNSの使い方という課題について書いていきます。

 

近代化、そして脱近代化。

日本はご存知の通り、明治維新・高度経済成長・IT革命を通して劇的に成長・発達・成熟してきました。

 

それはあまりに急激だったために、振り返るのは大変です。

 

抽象論ですのであまり細部には触れず、あくまで大雑把にいきますよ。

 

現代を脱近代化の時代と仮定すると、色々見えてくる。

僕は、いま日本は脱近代化の時代に入ったと考えています。それは近年、社会における、特にIT分野での発展が、人々の暮らしを劇的に変えてきたからです。

脱近代化は新自由主義や個人主義と切り離すことができません。

自己実現・社会的成功こそが人々の目指すべきところだと、僕たちは叩き込まれています

それは教育やメディア、時には親や教師、上司からも教えられることです。

 

「はやく家庭を持てよ」「35までには手に職つけろよ」

 

そういった、時代に即していないかもしれないお節介が、若者を規定しているのです。それに対して、若者がオヤジたちの期待に応えようと、もがいているのです。

個人的には、そんなんどうでもええやん、と思うのですが。ですが、僕もやはりオヤジたちの時代遅れ理論に着いていこうと”してしまいます“。

それはなぜか。個人主義といいつつ、この国はやはり世間なしには成り立たないからです。その世間様が、オヤジという代理人を通して我々若者に呼びかけてくるのです。

 

それはもしかしたら「俺たちの老後を支えてくれよ」という傲慢であるかもしれないし、あるいは「せめてお前だけでも生き延びてくれ」という、この時代の先行きを見て、若者の危機を案じてくれている事の現れなのかもしれません。

 

とにかく、我々若者はオヤジ・世間に規定されて生きています。それはSNSを通してでもそうです。自分ですべて考えて生きているようで、その数十パーセントに関していえば誰もが社会に規定されて生きています。

 

それにある意味抗っていたのがヤマンバギャルや不良、オタクだったわけですが、彼らも世間からのバッシングの中で、次第に世間に併合されていきました。

 

ではこの時代、どうSNSを使って幸せになるのか。そこで言えるのは、とかく、自己実現というのは厄介だということ。

 

答えのない自己実現という課題の中で。

自己実現という課題には、とにかく答えがありません。

答えのないことに答えを出すんですから、みんなものすごい労力を使います。

 

昔、昭和時代は社会が答えを出してくれました。いい大学・会社に行って、家庭をもって。サザエさん一家こそが答えだったわけです。じゃあ脱近代化したいまは?

答えなんてない。

それが答えです。

 

何が起きても変じゃない、そんな時代さ。覚悟は出来てる。そんな風に歌っているミュージシャンもいますね。阪神大震災・東日本大震災・熊本地震・少子高齢化・失われた20年・リーマンショック・・・。この国の災害はなぜか世界の不都合な出来事と一緒にやってきます。

 

何が起きるかわからない時代。幸せがいつ崩壊してもおかしくない時代。今後これに、日本では少子高齢化に伴う社会福祉・インフラや生活の質の劣化、世界的には地球温暖化に伴う食料や戦争の課題が首をもたげてきます。

 

サザエさん一家は、脱近代化後は絵に描いた餅になってしまいました。

 

そんな中で、答えをさがす。自己実現こそが成功という社会は、とても不安定で悩みの尽きない社会です。あえて言えば、これは過渡期で、もう少し成熟すれば今の日本やアジア各国が属するアメリカ型消費社会ではなく、ヨーロッパ型福祉社会にたどり着けるはずです。100年はかかると思いますが・・・(シリア難民や移民問題という課題には目をつむる)。

 

SNSをどう使えば、この時代を幸せに生きられるか。

では、具体論に入っていきます。課題が自己実現ならば、SNSではこの課題を解決、あるいは解消してしまえばいいわけです。

 

アカウント使い分けこそが世間の波をかいくぐる鍵

はいきました。アカウント使い分け。

 

「わかってるわ、そんなこと!」

 

と思われた方、多いと思います。ここまで長々と書いてきて、結局それかよ、と。

 

ですが、解決策というのはシンプルで、誰にでも出来ることでなくてはなりません。

解決策が具体化すると、絶対に弾かれる人が沢山でてきます。それを最小限にしなければいけない。じゃないとこんなことをグダグダ書く意味がなくなってきます。

 

実は皆やってる使い分け

twitterが象徴的ですが、アカウント使い分けは、ツールが発達したことで容易になってきました。

 

推測ですが、建前と本音を隔てるために、アカウントをいくつも使い分けている人は、かなり増えてきているのではないかと思います。それは、世間という圧力が、思ったよりも怖いことだと、炎上や誹謗中傷コメントを通して皆が学習してきているからです。

 

世間では「しっかりものであれ」という風潮が強い

本当に、皆が上昇志向を持っている時代。これは自己実現の時代を生きている以上、当然のことです。

だからこそ本音と建前を使い分けないと、ぶつかり合いが起きるし炎上やトラブルに発展してしまうのです。

 

5chという「しっかりもの」へのアンチテーゼ

また、この風潮のアンチテーゼとして5ch文化があります。便所の落書き、という形容詞は誰が考えたかわかりませんが、5chはその色合いをかなり強めてきています。

 

「草」に代表される馴れ合い文化、その反極としての猛烈な弱者バッシング。twitterにもあると思いますが、「相手は悪いけど、なにもそこまでやらんでも・・・」な言論は結構見られます。

 

これは、5chが社会的圧力の強さからくる反動、つまりはガス抜きの舞台なのだと理解しています。昔は不良やオタクになることで乗り切っていた面(ならざるを得なかった)もあると思いますが、脱近代化後の現代にはその逃げ道もありません。

だから、ネットでガス抜きしたい人もたくさんいるんだと思います。彼らの書き込みを本音だと勘違いすると、痛い目にあいます。

 

使い分けたいけど、どうしても建前に本音が混じってしまう。

建前が叩かれたなら納得できるところですが、本音を叩かれると人間かなり凹むもの。

ある意味、建前も立場を変えれば本音なわけで、それを本音と捉えた他者からはやはり攻撃されてしまうのです。

だから、今は練習期間だと思って、意識的に使い分けのノウハウを学習してほしいです。

 

生きてれば万々歳理論。

僕がなぜSNSにここまで肩入れするかというと・・・。それは気軽に自己承認を得て生きづらさを解消できるという点にもあるのですが、それよりも

 

「生きてれば万々歳」

 

という生き方が、実は一番幸せなんじゃないかと気づき始めているからです。

(ちゃぶ台返し。怒らないでここからも読んでください。)

 

これはやはり世間や自己実現に対するアンチテーゼだと思います。どうなったってそう捉えられてしまいます。自分で書いていても笑っちゃうほど、極端すぎますもん。

 

ですがこれは、社会が極端に片側によって生きづらいから、反動で逆側に行こうという動きに、僕も乗っかっているだけにすぎません。振り子です。

 

いまさらスマホを捨てて山で暮らすなんて、無理です。

ですので、SNSのアカウントを使い分け、時には愚痴をはきつつ、ゆるいSNSのつながりの中で生き残っていくしかないと思います。そんな時、生きてれば万々歳、誹謗中傷されても自己承認欲求が少ないから効かないよという考え方は、繰り返しになりますが振り子理論的に役に立つと思うのですが・・・どうでしょうか。

 

SNSをうまく活用しよう。

裏と表、本音と建前。人間どちらもあって当たり前です。明日には、僕が「こんな世界ぶっ壊してやる!」と豹変しているかもしれません。そうならないことを願いますが。

 

そんな裏表が、SNSのおかげで目に見えるようになってしまった。その先にSNS疲れやトラブル、炎上があるのです。

 

だから、解決策としてはシンプルに「使い分けを学習しよう」です。

時にはおじさん(僕も何年もたたずともモウスグおじさんです)が女子高生を演じたり、怪しまれたら逃げたり。あるいは逆もあるかもしれません。バレないなら嘘をついてもいいでしょう。

 

矛盾するようですが、多少の自己承認欲求だったら簡単に満たせてしまいます。これを活かしてストレスの発散をしてもいいでしょう。いいねにいいねが帰ってくれば、深く悩むこともないはずです。そんな建前コミュニティを探しても、ツールに利用されなければ「ま、暇つぶしだし」で済んでしまいます。

 

ある意味、これは都会的な病気かも。

ちょっと理論が飛躍しますが、SNSがないと若者が生きられないのは、都会的な病かもしれません。

 

これはひとえに都会の人の多さが原因です。多すぎるがゆえに衝突や摩擦が多く、それを避けたい。それ故に人はネットに逃げるのではないかと。

 

これが僕みたいに田舎に住んでいると、人が少なすぎて逆に人探しにネットを使ったりします。

 

田舎は、ゆるい大人がたくさん残っているフロンティアです。

 

だから、最後に言いたい。疲れたら、田舎に空気だけでもいいから、吸いにおいでと。

SNSはあくまで清涼剤。一時を凌ぐためのツール。

 

僕はこういう考えにたどり着きました。みなさんはどう考えますか?

コメント

タイトルとURLをコピーしました