日本の貧困自己責任論の問題点は貧困の背景への無知無関心にある。

一般生活

この記事では2017年11月中旬に、貧困の根本は政治参加への無関心が原因であるという趣旨の問題提議を行いました。

時は流れて2018年10月。この記事のリライトをきっかけに、日本の貧困自己責任論について考え直してみたいと思い、自分の記事をじっくり読んでみると・・・ひどい。

 

てことで、リライトもとい全面改訂を施しました。もしよければ、ご覧ください。


この記事では、以下のツイートを引用させていただきます。

このツイートの鋭さは、貧困自己責任論を叫んだひとに、いつかブーメランのごとく貧困が襲いかかってくるという指摘です。つまりは、自己責任論の蔓延りが、日本の沈没を伴うものだ、という論理です。

なぜ鋭いのか。

正直僕は、これを読んだ当初は「しょうもない、視野狭いなあ」と感じていたのです。申し訳ないことです。

ですが、1年経った今見返すと、恐ろしい視点でツイートを見ていたんだなと気づいたのです。

貧困当事者には、政治参加する余裕など無いことに、気づいてしまったからです。これがこのツイートの鋭さ、切実さにつながっているのだなと。心からの叫びだと、いまさらながら気づいたのです。

ツイートによれば、この”叫び”は2012年のもの。

国家内の経済格差を示す指数に「ジニ係数」というものがあるのですが、インターネットで把握できるデータでは、社会保障などで所得が再分配された後のジニ係数、すなわち「再分配所得のジニ係数」は2011年の0.579に対して、2014年は0.576と若干の改善が見られていることがわかります。

一方で、OECD加盟国の2014年の平均値は0.318。日本は依然格差社会であり、貧困率の高い国であることがわかります。

 

しかし、貧困当事者と言うと、どうもその存在が見えにくいという声も聞こえてきそうです。

皆さんに想像を呼び起こすために、できるだけわかりやすい例をあげてみます。

 

夜間中学から見えてくる、日本の貧困の縮図

戦後の混乱期や、日本の経済発展期に学校へ通えなかった人々

中学校夜間学級、通称「夜間中学」をご存知ですか?文部科学省によれば、全国8都府県に夜間中学が存在しています。

 

夜間中学の存在意義は、様々な理由により義務教育を修了できなかった人々のために、教育の機会を提供することにあります。

 

この夜間中学に通う人々は、例えば戦後の混乱期のなかで学校へ通うことの出来ず、学び直しをしたい高齢者であったり、日本の経済発展期に同じく貧困にあえぎながら昼夜の労働のなかで学校へ通えなかったり、近年ではいじめや経済問題から不登校になった青少年、そして日本語の不自由さを解消したい在日中国・韓国朝鮮・ブラジル・フィリピン人などです。

 

学び直し、というと生涯学習のようなものを想像されると思いますが、実際はまさしく「命」「暮らし」に関わる、生活に根ざしたものです。

昔、夜間中学を取材して知ったのですが、彼らは私達が当たり前に行っている「自分の名前の記入」「公共機関へ提出する書類の読解と記入」ができないことが多いのです。

それは、病院に通うことを躊躇させ、公共機関の利用から時として遠ざける要因ともなる、まさしく大きな障壁なのです。

 

そして、ここまで説明してきた「読み書きができない」ということが、自己肯定感をすり減らし、学習や自己研鑽や経済的自立への意欲・機会を奪ってしまいます。

それは、読み書きができないひとが大学に入って、一流企業に入れるか。誰でも考えてみれば、想像の及ぶことです。

夜間中学は、まさしく「一度コケたら立ち直れない」のためのセーフティネットとして機能しているのです。

 

貧困は精神(思考)と経済、双方に襲いかかる

精神と経済の貧困とは

夜間中学については、すごーくざっくりしているのですが(たぶんブログひとつ作れる文章量になる)・・・。

ここで取り上げたいのが、夜間中学の「効能」ともいえるもの。そこに通う人々に共通していることは、夜間中学で教育を受けることで、「どうせ自分は駄目なままだ」「学校なんか通ったってなにも変わらない」という思考が「もっと学びたい」というものへ変化する、ということです。

精神の貧困とは、この「何をやっても、もう無駄だ」という部分です。学習的な無力感が、貧困脱出のための「学習」「自己研鑽」といった機会を奪うのです。

 

経済の貧困はこの精神の貧困と結びつき、さらなる貧困へのスパイラルを生み出します。

結果、政治や社会問題への無関心層を増大させ、政治参加率の低下、社会の地盤沈下、ひいては日本の沈没を伴うものになっていきます。この方程式は、おそらく数十年単位のながいスパンで進行していくため、普通に生活していても気づきにくい、恐ろしい”病”です。

僕が貧困の自己責任論を受け入れられない理由

貧困は、必ずしも自己責任のもとでは生まれないから

貧困の背景・原因は、学習・自己研鑽の機会の喪失といった成長を奪われたことによる個人要因と、世界情勢と行った環境要因とにわけられると思います。

夜間中学の例で言えば、戦後の混乱など、まさしく当時の誰にも降り掛かった厳しい環境要因であるわけです。

また、経済発展後も貧困家庭に生まれ、必死で育ててくれる親を前にして、いつまでも甘えていられないと行動する子どもの存在は、否定出来ないものです。もし、その行動が義務教育の機会の喪失につながっているとしたら。それは個人要因だけでなく、家庭環境というくくりでの環境要因と言えます。そして、後のセーフティネットとなる夜間中学の意義は大きいものとなります。

このように、必ずしも貧困は、自己責任という名の個人要因のもとだけで生まれるわけでは、ないのです。

 

環境要因への想像力という、貧困自己責任を語る上での前提条件

政治や社会への無関心を恥じなければいけないのは、無関心のうえに自己責任論を振りかざす人々

貧困の例やその要因についてここまで論じてきましたが、それでもなお自己責任論を振りかざす人々には、もはや政治や社会への無関心が存在していると言わざるを得ません。

ここまで書いたように、環境要因には個人や家庭では太刀打ちできない場合があるからです。

貧困自己責任論の行使は、そうした人々への無知・無関心・盲目から生まれるもの。人によっては、自分より下を探して喜んでいる例もあるでしょう。それこそが想像力の欠如という、無知なのです。

ここでようやく、リライト前の記述につながります。つまりは、環境要因への想像力をもったうえで、ようやく貧困自己責任論の議論の舞台にあがることができるということです。あたりまえにあると思っている日本の平和・物質的豊かさ。それはこれまでの国民の努力の積み重ねの上にあるのです。

だから、いまある幸せを、もっと大きくしようという方向に、社会を持っていくべきなのです。

その時、障壁となるのが諦めという精神的貧困であり、一定の賃金を稼ぐのに忙しすぎて、時間が取れないという経済的貧困でもあり。

 

我々日本人は、自己責任論を振りかざす前に、この精神と経済の貧困を改善していくことを課されているのです。

 

結び

「隣人が苦しんでいるのに、どうして無視していられる?」

こんな感じの言葉を、最近見たドキュメンタリー映画に出てきたアイスランド人が言っていました。正直、とても感銘を受けました。

キリスト教圏にはキリスト教圏の、日本語圏には日本語圏の良さがあるわけで。他の国家を真似するだけではなく、足元にある良さを活かして問題解決への合意形成を行っていきたいですね。

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